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ミッチェル『風と共に去りぬ』の二つの新訳・荒このみ訳「岩波文庫」、鴻巣友季子訳「新潮文庫」

 新訳が二つも登場して、今話題の『風と共に去りぬ』について、恩師様にお話しした。

 いや、正直に言えば、またもや私は、うかつにも新訳が出たことに気付いていなかったのだ。

恩師さまに「新訳が出たぞ」とお聞きし、調べてみると、鴻巣友季子訳、新潮文庫。それもなんと第2巻まで一度に出ている。

「懐かしい。」

思わず私が漏らした言葉。私もこんなことをつぶやくようになってしまった。大昔、学生時代に大久保康雄・竹内道之助訳で読んだからだ。私は、これを読んで初めて、南北戦争が北アメリカでの南北戦争だと知ったのだ。でも、大学の寮の英文科の先輩もそういっていたから、お互いに「恥ずかしい」といいながら、苦笑した。そんなことをふと思い出した。

しかし、新訳の「アシュリ」は、旧訳の「アシュレイ」の呼称でもって、今も私の心に像を結ぶ。困った弊害だ。

私は事情があってすぐに買うことが出来ないので、まず「キンドル版の無料試し読みブックレット」『風と共に去りぬ』新潮新訳版を入手し、お見せしようと訪問した。おずおずとキンドルをお渡しすると、恩師さまは、予想外にもこんなことを仰る。

「『たとえば、タールトン家の双子がそうだったように』というこの訳がどうも気に入らない。」

はて、こんな大事なところが何故、と思うと、すぐにこう仰る。

「『そうだったように』という部分が、大久保・竹内訳と同じなのだ。影響を受けたみたいだ」

私は、慌てて、1週間ほど前にT市の某ブックオフで入手した大久保・竹内訳グリーン版3冊を読んでみた。確かに、同訳にはこうある。

「双子のタールトン兄弟がそうだったように」

出直した私は、恩師様に申し上げた。

「なるほど。確かにそうでございます。でも、受験英語では、これは定訳ではありませんか」

ところがなんと、ふん、という例の冷たい横顔。眼鏡の縁がキラリと光る。

わかりました、「受験英語で定番でも、文学的な翻訳では不適かも」と仰しゃりたいのでございますね、と私は言えなかったが、きちんと比較してみます。

新潮文庫 鴻巣友季子訳『風と友に去りぬ』(「キンドル版の無料試し読みブックレット」)

201541

スカーレット・オハラは実のところ美人ではなかったが、たとえば、タールトン家の双子がそうだったように、ひとたび彼女の魅力の虜(とりこ)となった男たちには、美人も不美人もなくなってしまうのだった。

それに対して、新潮文庫の旧訳はこんなだ。

新潮文庫 大久保康雄・竹内道之助訳『風と共に去りぬ』

昭和526月1日発行(初版)平成1633056刷改版 平成2332063刷(こちらは、昨日BOOKOFFで買った本の奥付)

スカーレット・オハラは美人というのではなかったが、双子のタールトン兄弟がそうだったように、ひとたび彼女の魅力にとらえられると、そんなことを気にするものは、ほとんどいなかった。

そして、今回、私が入手の大久保・竹内訳は、実は少し違っていてこんなだ。

世界文学全集 別巻1 ミッチェル 

1960310日印刷 1960315日発行

大久保康雄・竹内道之助訳『風と共に去りぬⅠ』 河出書房新社版

スカーレット・オハラは美人ではなかったが、ふたごのタールトン家の兄弟がそうだったように、ひとたび彼女の魅力にとらえられてしまうと、そんなことに気のつくものは、ほとんどないくらいだった。

ともかく、昭和35年版でも、やはり、「そうだったように」とある。恩師様にとりあえず「そうだったように」が同じだったことをお話しすると、

すると恩師様は、また別の大久保・竹内訳を示された。

世界文学全集 38 『風と共に去りぬⅠ』

1973530日印刷 1973625日発行

大久保康雄・竹内道之助訳『風と共に去りぬⅠ』 河出書房新社版

スカーレット・オハラは美人というのではなかったが、双子のタールトン兄弟がそうだったように、ひとたび彼女の魅力にとらえられると、そんなことを気にするものは、ほとんどいなかった。

 おっと、この部分は、今の新潮文庫と同じではありませんか、1960年から1973年までの間に訳文が変わっている、と驚く私に、恩師様はここを読みなさい、と指摘された。521頁の部分だ。

「この作品の翻訳には、マクミラン社の一九三七年刊第二版をテキストとして使用した。なお、今般本全集に収録するにあたり、可能な限り全面改訳を行なった。」

訳者に気合いがはいっているのが、ビンビン私に伝わってきた。「全面改訳」だ。ははあ、今の新潮文庫版は、このときの改訳に負っているのか。でも、冒頭の比較だけだから、全部がそうとは言い切れないが・・・

ともかく、大久保・竹内訳でも新訳が洗練されているような気がするが、でも「そうだったように」は同じだ。

 と、その時、思いがけない言葉が・・・。

「岩波文庫でも新訳が出るのだが知っていますか」

どきっ。岩波文庫でも・・・。荒このみ訳だそうだ。

ああ、冒頭はどのように訳されているのか。私はいてもたってもいられない。発売日の16日には、いさんで都内の大型書店2店舗に行ってみた。ところが、どちらの店員からもコンピュータの画面を見ながらこう言われてしまった。

「本日発売なのですが、入荷していないですね、発売日とはありますが、どこの店舗も仕入れ入荷のところが、まだ0表示です」

0表示とは、在庫が0という意味らしい。

私は、馬鹿なことに、おもわずアマゾンに頼んでしまった。考えてみれば20日の到着予定、まだ4日もある。

気になって気になって翌日は地元T市の大手の書店2店舗で聞いてみたが、やはり届いていない。「東京はすでに店頭に並んでいる」という情報が入ったので、きっと流通のせいだ。この2日間が徒労だった。

そして18日に、私は実物を探しにまたもやT市の別の本屋へとでかけた。そこでやっと、本体を見つけたのだが、もちろん買うことはせず、その冒頭部分を確認したのだ。こんなふうに訳されていた。

岩波文庫新訳 荒このみ訳『風と友に去りぬ』

2015416日発行

スカーレット・オハラは美人ではなかったが、いったんその魅力に取りつかれてしまうと、タールトン家の双子の兄弟がそうだったように、男たちはたいていスカーレットが美人でないことを忘れてしまった。

 やはり「そうだったように」だ。これは定番なのか。

 恩師様は、きっと原書を見るようにと仰るだろうから、先手を打って調べてみると、原文は、こうだった。

Scarlett O’Hara was not beautiful, but men seldom realized it when caught by her charm as the Tarleton twins were.

さて、私が、受験の定番を捨ててうまく訳せればいいのだが、ない知恵を絞ってみてもうまくいかない・・・。

ところが、恩師さまは珍しく、こんな遊びを見せてくださった。

「スカーレット・オハラは美人ではなかったのだが、男たちはたいていそう思わない。というのは、その魅力の虜になってしまうからだ。タールトン家の双子もそうだった。」

あれ?、when が、「というのは(for)」、となっている。Seldomも「たいてい・・ない」と訳しているし、私はゲームで遊んでいる(遊ばれている?)ようだ。すると・・・

「次の段落が、「タールトン家の双子」の話題でしょう。文脈から見れば、双子のことが日本語訳でも最後に来なければ、読む人の思考の流れを壊す」

恩師様もそうなのですね。私も「そうだったように」と挿入句のように前に入れるのには、多少なりとも抵抗感があったのです。

なぜなら、私も多くの「男たち」がスカーレットの「とりこになった状態」を表すのに、その前に「タールトン家の双子の兄弟がそうだったように」など、たった二人の感覚をたとえとして挿入して訳すのは、いくら英文には添っていても、日本語の描写の論理としてはいささか奇妙ではないか。つまり、スカーレットをとりまく状況としては正しくないかもしれないと思い至る。

だって、スカーレットにダンスを申し込みたい輩は何人もいたのだから。みんなが魅力の虜になっていた。双子もやはりそうだった。うん、この論理がしっくり来る。

しかし冒頭部分を読み比べていた私は、つい学生時代の夢想にもふけってしまった。「グランドツアー」という言葉も懐かしかったが、「大学を放校という話」も『ライ麦畑でつかまえて』をなんとなく彷彿とさせるものがあったりしたから。

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